6つの話からなる短編集です。
全ての話に何かしらの事情を抱えた人物が登場します。病気、障害、不思議な現象や能力と様々ですが、それらを巡る人々の強さや優しさが心地よい作品です。
目次
1.『トオリヌケ キンシ』
あらすじ
小学3年生のある日、通学路の途中にある「トオリヌケ キンシ」と書かれた看板の向こうに足を踏み入れた田村陽。そこにはクラスメイトの川本あずさの家があり、これをきっかけにふたりは話をするようになります。
それから時は流れ、成長しある事情を抱えている陽の前に再びあずさが現れます。
自分は陽に助けられた、と言うあずさ。ふたりの間に起きていた出来事が時を経て明かされます。
あずさの事情
» 以下ネタバレあり
「生まれてからあの頃までずっと、家以外の場所ではまったくしゃべれない女の子だったのよ。しゃべらないんじゃないの、しゃべれないの。どんなに話しかけられても、無理なものは無理なの」
(本文より)
場面緘黙症というそうです。あずさ自身が述べているように、ぱっと見は「おとなしい子」と区別がつかないかも知れません。
一般的には幼児期に発症し、男児より女児のほうが多いとのこと。放っておけば話せるようになるというものでもなく、適切な支援が必要だそうです。
陽があずさの家を訪れたことで、あずさに取っての「家」と「外」の間の壁に変化が起こったのでしょう。
あずさはまず自分の家で、そして次は学校で陽と話をします。だんだんと他の人とも話が出来るようになり、高校生になったあずさは小学校の同窓会にも参加しています。
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陽の事情
» 以下ネタバレあり
ある時を境に、おれは学校に行けなくなった。そればかりか、家から一歩も出られなくなった。人に会うことが、怖くてたまらなくなった。
(本文より)
高校生の陽は、友達(だと思っていた相手)とのトラブルを発端に引きこもり状態となっていました。
そんな陽の元を訪れ、自分の事情を明かすあずさ。あずさと彼女の連れてきた犬が、陽の閉ざしていた扉を開くきっかけを作るところで物語は終わります。
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2.『平穏で平凡で、幸運な人生』
あらすじ
四つ葉のクローバーや隠れミッキーを見付けるのが得意な主人公・澤木。「“声”が聞こえる」と言う彼女に、生物の葉山先生がそれは共感覚ではないかと教えてくれます。
それから十年、共感覚により人生が劇的に変わることもなく、澤木は平穏な生活を送っていました。ところがある日家族3人で出かけた旅行先で事件に巻き込まれて…絶体絶命のピンチを救ったのは、役に立たないと思っていた共感覚でした。
澤木の能力:共感覚
ある刺激を受けた際、通常とは異なる感覚も生じるという特殊な知覚現象のことです。
例えば、「アルファベットや数字に色がついているように見える」「音を聴くと色が見える」といったケースが挙げられます。
葉山先生曰く、たくさんの同型から異型を音で認識するというのも珍しいケースで(四つ葉のクローバーはこの例でしょうか)、澤木の場合は特定の形を“声”で知らせるという更に特殊なケース(隠れミッキーはこちらですね)とのこと。
3.『空蟬』
あらすじ
やさしかったおかあさんは、おそろしいバケモノにたべられてしまった。
(本文より)
主人公・タクミが幼い時に起こった人生最悪の出来事。優しかった母がある日を境に変わってしまい、タクミは理不尽に怒られ拒絶され、しまいには一切の世話を放棄されたのでした。
そんなタクミの味方で「偽者のお母さんをやっつけよう」と言ったタクヤと、ふたりに起こった事件。その後新しい母がやってきたものの、十数年経っても打ち解けられないタクミ。
人生最悪の出来事を引きずったまま大学生となったタクミに、ある日全ての真相が明かされます。
タクミの母に何があったのか?
» 以下ネタバレあり
優しかった母、ある日を境に変わってしまった母、そして新しくやってきた母、全てが同一人物でした。
タクミの母の人格が一気に変わってしまったのは脳腫瘍によるもの。階段から落ちるという事故で病気が発覚し、無事に回復したものの、タクミを傷つけてしまったという思いから新しい母としてタクミのもとに現れることにしたのです。
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タクヤの存在
タクミに取っての一番の友達で、兄弟のような存在でしたが、タクミ以外の誰もタクヤを知りませんでした。成長したタクミはタクヤが想像の友達だったと認識しています。
» 以下ネタバレあり
実はタクヤは想像の友達ではなくちゃんと実在する人物で、幼少時にはタクミの家の隣に住んでいました。
本人曰く当時は「ペットかよ、っていうような」本名で、タクヤというのはタクミが付けた名前。放置児童だったタクヤはタクミの母の事故を機に児童養護施設に入り、ある家に養子に入った際に名前をタクヤと改めたのです。
苦しい境遇を感じさせないくらい前向きに今を生きているタクヤ。タクミに取って、タクヤは昔も今も自分を救う存在となります。
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4.『フー・アー・ユー?』
あらすじ
主人公・佐藤は人の顔を識別することが出来ない、相貌失認という障害を持っています。
高校に入学し、相貌失認とも上手く付き合っていけるようになった佐藤はある日、(彼に取っては)顔の分からない女の子・鈴木さんから告白されました。
まずはお友達からスタートしたふたりですが、どうやら鈴木さんが告白してきたのは佐藤の相貌失認とも関係しているようで…
佐藤の事情:相貌失認
先天性、後天性いずれでも起きうる脳の障害です。人口の2%程度に現れるものらしく、とても珍しいというものでもないと考えられます。
佐藤に取っては誰が誰だか分からない、人の顔を覚えられないだけでなく、表情から相手の感情を読み取ることも出来ないという状態で、中学校では苦しい日々を送っていました。
この自分の状態が相貌失認であると分かり、高校ではそれをカミングアウトすることで彼の毎日は大きく変わったようです。
また、人の顔が分からない佐藤もちゃんと「人を見る眼」を持っているという描写にあたたかさを感じます。
鈴木さんの事情
» 以下ネタバレあり
鈴木さんの友達は、佐藤は人の顔を認識出来ない=決して不細工とか言わないから、鈴木さんが佐藤に告白したのだと言います。
自分の容姿に自信がないから、人の顔が分からない自分に近付いてきたのかともやもやする佐藤。でも事実は違っていました。
「私の顔を見て、みんなが嗤っているような気がして、辛くてたまらなかったの。(中略)男の子だけじゃなくて、家族以外の人が怖くてたまらなかったんだけど、たった一人だけ、平気なひとがいたの」
(本文より)
鈴木さんによると醜形恐怖症とのこと。自分の容姿に極度にとらわれる症状で、対象が顔だけでなく全身の場合もあり身体醜形障害ともいうようです。
『フー・アー・ユー?』を読む限り、本人がなるべく顔を隠すようにしたこともあってか鈴木さんの状態は落ち着いているように見受けられます。
鈴木さんが佐藤を好きになった理由は「佐藤だけは自分のことをじろじろ見たりせず、安心出来たから」。佐藤の相貌失認がきっかけではあるものの、相貌失認だから近付いた訳ではなかったのです。
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5.『座敷童と兎と亀と』
あらすじ
大学生と高校生の兄弟がいる4人家族・兎野家。その母が通っていた整体で知り合ったおじいちゃん・亀井さんから、家の中に座敷童がいるとの相談を受けます。
小さい女の子が家の中で現れては急に消えたり、仏壇にお供えしたご飯が減っていたり…亀井さんの家で何が起きているのか、兎野母と高校生の息子は様子を見に行きます。
座敷童の正体
» 以下ネタバレあり
兎野親子が亀井家で見つけたのは小さな女の子でした。この女の子は亀井さんの孫(亀井さんの亡くなった息子の子)で、母親が勝手に亀井家に置き去りにしていったのです。
もちろん女の子が置き去りにされていましたでおしまいではなく、『座敷童と兎と亀と』では女の子とその母親の抱える問題についても触れられています。
何故そこに存在するはずの女の子が座敷童のように現れたり消えたりしていたのか…これは亀井さんが脳梗塞の後遺症として半側空間無視の状態となっていたことによります。
片側(左側であることが多い)の刺激が認識出来ない、見えないし聞こえないし触れないという状態が引き起こしたのが座敷童現象でした。
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6.『この出口の無い、閉ざされた部屋で』
あらすじ
「ここは神聖なヒキコモリ部屋だ」
(本文より)
ある理由から明晰夢に熱心な主人公・伊東と、宇宙飛行士になりたいという少女・緑野(ミナノ)。
ふたりの一瞬の交流と、夢の中での告白。どこまでが現実で、どこからが夢だったのか…つらさとあたたかさを内包した事情が明らかにされていきます。
明晰夢
夢であることを自覚している夢のことです。夢の内容を認識し、夢の中で意識して行動したり、自分で自分の夢をコントロール出来たり、伊東曰く「まるで夢みたいなことが実現出来る」そうです。
他の話とのつながり
時折自分のもとを訪れる友達を伊東は「ゴリ野」と呼んでいますが、本名は「兎野」。『座敷童と兎と亀と』に登場する兎野家の息子です。
伊東は勉強が出来るという描写があることから、『座敷童と兎と亀と』で兎野家の次男・大介が言っている「神レベルで頭のいい友達」が伊東ではないかと思います。つまり伊東のもとを訪ねているのは兎野家次男ですね。
また伊東の夢や回想の中に、他4作とのつながりもあります。
夢の中の教室のシーンでは黒板に生物教師による「数字の9の鏡文字みたいなP」が残されていますが、この生物教師は『平穏で平凡で、幸運な人生』の葉山先生と見られます。
回想として登場する高校生のカップルは『フー・アー・ユー?』の佐藤と鈴木さん。変わらず仲の良い様子です。
» 以下ネタバレあり
別の夢で、夜、犬の散歩をしている十代半ばの男女は、『トオリヌケ キンシ』の陽とあずさのその後のようです。夜中ではありますが、陽も外に出るようになったのですね。
最後に『空蟬』ですが、こちらも伊東の夢の中に買い物帰りの親子が登場しています。小柄で痩せた青年が母親の荷物を持つ様子…タクミと母の関係も良い方向に向かっていることが分かります。
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伊東の事情
» 以下ネタバレあり
「おまえがいるのは、確かに行き止まりの部屋だよ。これ以上ない閉ざされた部屋さ。なんたって、無菌病棟のそのまた奥の、無菌室なんだからな」
(本文より)
受験の前日に高熱を出した伊東。血液検査の結果、余命宣告を受けます。骨髄移植をしないと生きられないということで白血病(加納朋子さんご自身も白血病で闘病されていました)でしょうか。
伊東が明晰夢に熱心だったのは、受験直前の病気と治療のダメージにより、投げやりになっていたことによりました。
骨髄移植は無事に成功し伊東は退院の日を迎えます。そのとき彼を待っていたのは、緑野の優しさと悲しい事実でした。
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緑野の事情
» 以下ネタバレあり
伊東が緑野と出会ったのは無菌病棟。緑野もまた病気を抱えていました。
そして彼女の伊東への告白。伊東は明晰夢の中のことと捉えていましたが、実際は無菌室の中でのことでした。
明るく現実でも夢でも伊東を照らすような存在だった緑野ですが、伊東と再会することはかなわず、伊東に1通の手紙を残します。
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あたたかくて、少しの不思議があって、短編集でありながらも全ての話がつながってひとつの本になる。まさに加納朋子の世界といった一冊です。
(2020.05.01追記)
★閉校が決まった女子校を舞台に、様々な事情を抱えた人々が登場する加納朋子さんの作品→様々な境遇の人に向けられたあたたかいまなざし②:加納朋子 著『カーテンコール!』