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舞台と原作の比較:ミュージカル『シャボン玉とんだ 宇宙(ソラ)までとんだ』

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目次

  1. 作品情報
  2. 舞台を観る前に原作を読んだほうがいいか?
  3. 舞台と原作の比較
 

1.作品情報

舞台:ミュージカル『シャボン玉とんだ 宇宙(ソラ)までとんだ』

製作:東宝
観劇:2020年1月@シアタークリエ
初演は1988年、音楽座ミュージカルの旗揚げ公演として上演されました。

原作:『アルファ・ケンタウリからの客』

著者:筒井広志
出版社:新潮社

筒井広志さんはミュージカル『シャボン玉とんだ 宇宙までとんだ』の音楽も担当されています。

2.舞台を観る前に原作を読んだほうがいいか?

私自身は舞台を観てから原作を読みましたが、「舞台を先に観たほうがよい」と考えます。

理由1:原作はSFで舞台はファンタジー

…というのはあくまで私の抱いたイメージですが。タイトルも原作の『アルファ・ケンタウリからの客』だといかにもSF感がありますが、舞台の『シャボン玉とんだ 宇宙までとんだ』だとファンタジーっぽさが強くなるように思います。

中身は同じ愛の物語ですが、舞台の方がより光の強い形になっていると思いました。
例えば、悠介と佳代が働いている場所。舞台では喫茶店「ケンタウルス」ですが、原作では悠介がカラオケ・ラウンジ「タキシード」、佳代が呑み屋「三日月」とふたりとも夜の時間帯に働いています。
また男女の関係に関しても原作には生々しい描写が見られます。これに関しては悠介と佳代の話だけではないので読んでいて苦しいシーンです。

» 以下キーワードとしての「シャボン玉」についてネタバレあり

この作品で「シャボン玉」が表すものを考えたときにも舞台の輝きを感じます。
原作には童謡の『シャボン玉』が登場します。「シャボン玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで」…その先の歌詞を死を意味する、歌ってはいけないものとして佳代は捉えています。
一方舞台では『ドリーム』で「虹色のシャボン玉 宇宙まで飛ばそう」と歌われます。悠介と佳代が心を通わせるシーンで、シャボン玉は夢や希望の象徴になっていると思います。

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理由2:舞台に描かれない「余白」の楽しみ

舞台では描かれず原作にのみ見られるシーンもありますし、原作では説明されているものの舞台では説明されない事柄もあります。
この「余白」を自分で想像しながら楽しむには舞台を先に観たほうがよいのではと思います。

» 以下ネタバレあり

佳代を守ろうとする中で刺されてしまったミラ。一緒にいたピアとテムキはミラを連れていなくなります。この流れは原作も舞台も同じです。
そして舞台ではラスト、悠介と佳代が一緒に亡くなった後、幸せそうに寄り添うミラとオリーの姿で幕を閉じます。
オリーが目を醒ましたのはもちろん、元々の予定通り亡くなる直前に佳代から生命素を移転したからです。ミラが目を醒ましたのは悠介の生命素を移転したからではないかと想像出来ますが、舞台では名言されていません。悠介と佳代の息子の「父さんも母さんもどこかで生きている気がする」という言葉が暗示しているのみと思います。

一方原作ではミラが刺されてからのこと、ミラとオリーのふたりが目を醒ましてからのことが語られます。
ラス星人達は亡くなったミラを冷凍し、その体を修復して保存します。このときにミラの生命素がないことも触れられています(作中別の箇所での説明からすると「宇宙に霧散してしまって回収することが出来ない状態」のようです)
そして原作のラストシーン。地上から空に向かう流れ星が目撃されたある日、悠介と佳代のふたりは揃って姿を消しました。その後目を醒ましたミラとオリー。ふたりのやり取りから、悠介の生命素がミラに移転されたことが分かります。

〈ね、ミラ〉オリーはミラの胸に頬をすり寄せた。〈あたしのこと、ちょっと、一度だけ、カヨって呼んでみて〉
〈んン?〉ミラはちょっと照れたように笑い、そしてオリーをキュッと抱きしめて、
〈カヨ……〉
〈なあに、ユウアン〉
何故か判らなかった。何故か判らなかったが、そのとき、ミラは、ふと心の中に、温かい感動が湧き上がって来るのを覚えた。

(『アルファ・ケンタウリからの客』より)

舞台を観ているときには「オリー」と「折口佳代」が対応する名前なのかな、としか思っていませんでしたが、よくよく考えると「ミラ」と「三浦悠介」も対応していますね。ラス星人の寿命は十万年、悠介と佳代の愛はミラとオリーの中でまだまだ続いていくのでしょう。

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3.舞台と原作の比較

原作も舞台も物語の流れは同じですが、設定や登場人物、ひとつひとつの出来事には差が見られます。

登場人物

上述の通り原作と舞台では悠介と佳代が働いている場所が異なるので、周りの人々も異なります。共通している人物は悠介と佳代、ラス星人達(ピア、テムキ、ゼス、ミラ、オリー)、おっちゃんこと小野源兵衛とお静、早瀬でしょうか。早瀬と一緒に登場し、悠介に宝塚の話を持ち掛ける「寺尾」は原作では男性、舞台では女性となっています。
原作では出会った時に悠介が23歳、佳代が20歳(最初は22歳と鯖を読んでいました)。舞台では出会って10年後の時点で佳代が32歳と言っており(悠介の年齢は不明)、微妙に年齢の設定も違うのかも知れません。

作曲家・三浦悠介

この点に関しては、原作での描写を抜粋したのが舞台になっています。

» 以下ネタバレあり

舞台で描かれているのは宝塚の作曲(本人名義、悠介のデビュー)とアメリカのコンクールでの入賞です。予選通過後、自分の曲が演奏されるのを聴くために渡米しており、その際に佳代が殺人を犯します。
一方原作では宝塚の作曲は師・早瀬の名前で行い、本人名義の初仕事はミュージックホールの作曲となっています。アメリカのコンクールでの入賞はその後で、悠介が渡米するのは入賞が決まってからです。悠介不在時に佳代が殺人を犯すのは同じです。

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スリとしての佳代

佳代がスリであることは原作でも舞台でも変わりません。
舞台の佳代は悠介から財布を取りましたが、原作の佳代は悠介に対しては何もしていません。ただ原作の佳代が悠介と出会ってからもスリを行うのに対して、舞台の佳代はその後スリはしていなかったように思います。

思い出の遊園地

舞台では遊園地が重要な場所として登場しますが、原作には登場していません。

» 以下ネタバレあり

舞台で悠介と佳代がはじめて出会ったのも、刑務所から出てきた佳代と宇宙船から帰還した悠介が再会したのも、遊園地の迷路の中でした。
一方原作でふたりが出会うのは佳代が働く呑み屋「三日月」で、その場で悠介が佳代に一目惚れしています。出所した佳代を悠介は刑務所の前まで迎えに行っています。
パネルを使った遊園地の迷路の演出は舞台ならではだと思います。はじめての出会いも、再会も同じ場所。同じ場所にいるのになかなか巡り会わないふたり。ここもまた「原作はSFで舞台はファンタジー」のイメージに繋がったのだと思います。

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原作のあらすじには「小さな愛の物語」とあります。小さな愛の物語でありつつ、宇宙も巻き込んだ壮大な愛の物語とも言えると思います。
日本を舞台にした日本のミュージカルで、このような素敵な物語に出会えた幸せを感じた作品でした。

★他の作品についてはこちらから→舞台と原作の比較:舞台を観る前に原作を読んだほうがいいか?

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